DIYヒストリー、あるいは歴史のディレッタンティズム

DIYヒストリーへの招待

ウェブという情報交換の環境のおかけで、物語というフォーマットに落としこんだ歴史を誰かに語ってもらいたいとは、わたしたちはあまり思わなくなったように思えます。いつでもウェブから情報を引き出せるし、必要に応じて引き出す情報の組み合わせも変えられるようになってきたからです。少なくとも、そうなりつつあるという感覚をわたしたちは共有しはじめているでしょう。

19世紀〜20世紀には、専門家が調べて語る首尾一貫した物語が「歴史」であり、わたしたちはそれを受け入れてきました。しかし、歴史を物語として語るというスタイルは、過去と向き合うにあたって自明のものではありません。むしろ、そうしたスタイルは、この200年ばかりの社会の環境に適応的だったにすぎなかったのかもしれません。

そもそも生物としてのわたしたちは過去の情報を物語として把握しようとすらしていないかもしれません。わたしたちが過去の情報を処理するとき、それらはもっと断片的なものとして与えられます。ルネサンスの時代には、その断片を断片として集めるというかたちで、過去と向き合ったディレッタントたちがいました。

近代歴史学では、ディレッタントたちは出来事の因果関係を説明しない、ただの好事家として片付けられることがほとんどです。しかし、珍しくて面白いものをひたすら集めるというディレッタントたちのやりかたは、このウェブという環境ではむしろ大いに意味あることになったのではないかとわたしは考えています。つまり、過去に記録された情報を網羅しようとすることは、それ自体で意味のあることになり、またその実現可能性も想像の範囲内に入ってきたと思います。

わたしは、歴史がアートの一形態になれると思っています。歴史というものを、「プロ」の語り部たちから、ディレッタントのものとして取り戻したい。わたしたちは、それぞれに過去と向き合っているのですから、「正しい」物語を誰かに与えてもらうのではなく、自分自身の歴史を見つけに出かけませんか。